前回は「道具」と身体性についての話をしました。
先人達の身体性を今に伝えるものとして「道具」を見てみましたが、
そのほかに過去の身体性を伝えるものに「着物」があります。
着物に慣れていない人が着物を着ると歩くだけでも着崩れを起こすことがありますが、これは日本人の歩き方が着物を日常的に着ていた頃と現代とでは違っているためです。
現代の私たちの多くは、右脚を踏み出す時に左腕、左脚の時に右腕を前に振って歩きます。この時体幹を見ると、骨盤の左側が前に出ている時に右肩が前に出るというように、上半身と下半身が左右反対方向に捻れています。
つまり、体幹を左右に捻る動作を繰り返しているのです。
着物は前身頃を体の前側で重ね、腰の部分で帯で留めています。
左右の前身頃は帯と体幹に挟まれる形になるのですが、その内側で体幹を捻り続ければ徐々にズレてしまうのも当然です。
「着物を着る」という行為は、着付けをすれば完了するわけではありません。
歩き方はもちろん、立ち方や座り方から所作に至るまで現代のそれとは違った身体の使い方、身体の有り様が求められます。
これらはかつての日本人が元来持っていた、あるいは長い歴史の中で培われてきた身体観・身体性に他なりません。
「着物を着こなす」ことは取りも直さずこの身体観・身体性を身につけることでもあるのです。
生活様式が変わり着物を着る機会が減ってしまった現代では、着物を「窮屈なもの」「キツくて面倒くさいもの」と捉える方が少なくありません。
一方で「着物くらい楽な服はない」という方もいらっしゃいます。
これらはシンプルに、着物とそれを着る人の身体性との相性によるものなのですが、逆に言えば、「着物を着こなす」=先人達の身体性を身につけることができれば「窮屈なもの」だった着物が「楽な服」に変わるかも知れない、ということでもあります。
同じ着物が「窮屈」から「楽」へと真逆のものに変わる。
これは着る人のカラダが変わるということに他なりません。
つまり、
新しい身体性を身につけるということは、新しいカラダを手に入れることに等しいということなのです。
私たちはカラダを通してまわりの世界を感じ、世界と関わっています。
新しいカラダを手に入れるということは、新しい感じ方、関わり方を手に入れることにつながります。
道具、着物、足半。
これらの昔から受け継がれてきたものを介して先人達の身体性を知るという営みが、今を生きる自分とカラダとの関わり、世界との関わりをより深いものとし、ひいては人生を豊かにするための試みのひとつとなる。
整体師の私が足半を作り、道具や着物をコラムに書くのは、
こんな確信があるからなのです。
Comments